【古賀はこがんとこばい】「古賀PICK UP」で「古賀」を歩く「筵内」編 熊野神社

一の鳥居

一の鳥居

宝永8年(1711)建立の古賀市内で最も古い年紀の鳥居といわれています。
鳥居の額は「熊野神社」となっていますが、明治維新頃までは「芳一王子宮」の額が掲げてあったそうです。

この鳥居には、寄進者代表の安武宗念と嘉市の銘がありますが、嘉市は当時の庄屋で、宝永8年の「筵内掟」に名前が記されています。

 

古賀市歴史資料館に展示されている「筵内村『掟』櫃蓋裏記載小箪笥」(むしろうちむら おきて ひつぶたうらきさいこだんす)。

「筵内掟」というのは、古賀市歴史資料館に展示されている小箪笥の蓋の裏側に書かれていた「掟」のことで、この小箪笥は、筵内の元庄屋安武家(現在は福岡市中央区在住)に代々伝わったもので、「寶永八年三月吉日」(1711)の日付が書かれています。

黒田氏が福岡藩主として筑前に入ると、村単位に庄屋・組頭・五人組の組織を設けて連帯責任制で農民を統治し、種々の名目の貢租が加って農民の負担が増大し、特に元禄(1680年代)の頃から加重が大きくなったようです。

「掟」は、自分の田地を耕作することができななったため、耕作することを村に任せる者が多くなり、村では手に負えなくなってきたために作られたといわれます。
この「掟」の後、筵内村も「享保の大飢饉」(1732-1733)となり、苦しい時代が続いたようです。

北辰妙見宮

石段を登って行く途中、一休みしたくなるような所にある「北辰妙見宮」碑(右側)と「北辰妙見宮 由来碑」(左側)

二の鳥居を潜り、250段の石段を登って行く途中の左側。
安政4年(1857)に建立されたのは右側の石碑。

左側にある「北辰妙見宮 由来碑」(平成17年建立)には「北辰とは、北極星のことであり、子(ね)の神とも呼ばれ、子は十二支の最初にあり北を指すことから、人の根元を辿れば北辰に達すると考えられ崇められてきました。(以下略)・・・」とあります。

阿弥陀如来像板碑

石段を登り詰めると、左側にある阿弥陀如来像板碑

熊野神社の境内、石段を登り詰めた左側に建っています。
碑は、鎌倉時代の建長7年(1255)建立。

中央に阿弥陀如来像、右側には「大勧進□成佛彫手僧長命」、左側には「右志為真覺並法界衆生往生極楽 建長七年乙卯二月十五日彼岸中」と刻まれています。

一枚の大きな平たい石、高さ1.4m、幅1.3m、厚さ20cmほど。
昔、筵内に大流行した疫病を封じるために造られたと伝えられていますが、古賀市立図書館に収蔵されている「郷土古賀の民話」(昭和60年古賀町司書部会)には、次のような由来が書かれています。

「昔、筵内に疫病が大流行しました。その時、疫病封じのため、石に阿弥陀如来像、薬師如来像、そして、もう一体不明の仏像(久保田勝美氏の家の庭にありますが、刻面は摩滅して何もわかりませんが、恐らく勢至菩薩像であったと思われます。)を刻み、三像を大根川端に建て、僧長命が疫病退散の護摩供養をした。それがいつかの大洪水のため三体とも流されてしまいました。そして、阿弥陀如来像は熊野神社に移され、薬師如来像は下流の孫目(今の蛍ケ丘)に移されました。眼病の仏として祭られています。」(以下略)。

【記事を書いた人】
千鳥ヶ池のめだか 街歩きと歴史探訪の記事が得意。古賀の歴史を様々な視点から伝えています。

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