【古賀はこがんとこばい】「古賀の民話と伝説の地を訪ねて」千鳥ケ池にまつわる話(その6・前編)

千鳥ケ池20200611

 

「千鳥ケ池」は、
江戸時代中期の「筑前国続風土記」(貝原益軒編著)や明治5年(1873)編集「福岡県地理全誌二十四久保村の内」にも記される自然池(湧水池)で、池の名前の由来や雨乞いなど数多くの民話や伝説があります。

第1回目は、池の名前の由来の話。

伝説 千鳥様

 

現在の福間町東福間団地の小高い所に、「千鳥様」の墓と呼ばれる小さな古びた墓石が残る。

「福間町誌」によれば、この墓は身投げした千鳥の霊を冠(かむり)村の村達が祀ったものだと言われる。
その名前から、身投げした池を「千鳥ケ池」と呼ぶようになったのだそうだ。

言い伝えによれば、昔からこの池で身投げをしても不思議と皆助かり、死んだ者は一人もいないという。
福間の半右衛門という男が借金の返済に困り、夫婦揃って千鳥ケ池に身を投げたが、近くの住人徳三郎に助けられた。

筵内の大工安右衛門も、この池に身を投げたが助けられた。
以来、この池に身を投げる者はいなくなったという。

(参考)昭和60年発行「郷土古賀の民話」(古賀町司書部会)

 

東福間団地の一番奥(東福間8丁目、東福間県営住宅椛25裏付近)にある現地には、次のような福津市教育委員会の説明板があります。

伝説 千鳥様

戦国の頃、熊野権現の神職に千鳥という名の一人の姫がいました。
姫には婚約者がありましたが、全国に経巻を納める六部となり、長年郷里に帰りませんでした。

その頃、宗像と糟屋の境にある大池の近くにいた土豪の息子が姫を慕い、ついには強引に姫を自分の妻としました。

そこへ帰国した婚約者は、この様を見て驚き、打ちひしがれて再び旅立っていきました。
この事を知った姫は、世をはかなみ、大池に身を投げてしまいました。

その亡きがらは冠に持ち帰られ、墓塔を建立して祭ることになったといいます。

また、今の古賀市千鳥にある大池は姫の名をとって、『千鳥が池』というようになったそうです。(「福間町史 明治編」より抜粋)

昭和38年、東福間の団地造成の際に、この墓塔が冠と東福間の境に移され、昭和63年の改修を経て現在に至っています。
毎年8月には地域で祭祀が続けられています。
平成27年7月 福津市教育委員会」

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【記事を書いた人】
初代編集長 戸田 ハイパーローカルメディア古賀すたいるの編集長をやってます。 古賀に特化した、古賀の人の役立つ情報を発信しながら、 市外の方にも、古賀の魅力を伝えて、しってもらいたいと思ってます。 読書会、手帳カフェ、まわしよみ新聞を定期的に開催してリアルとも つながる、場づくりを実験中。現在は大阪在住。 【趣味】読書。有川浩から紫式部まで。ライフハック系までなんでも読みます。 【好きな言葉】出会いは偶然、恋は必然。

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