【古賀はこがんとこばい】「古賀の民話と伝説の地を訪ねて」旦の原の古井戸(その4)後編

旦の原の古井戸(だんのはるのふるいど)②

現在の井戸は,県道503号線と県道535号線が交差する地点から40mほど鷺白橋側寄りの道路沿いにありますが、当時からこの場所に井戸があったのではないようです。

井戸舎に掲示されている「旦ノ原の井戸」の由緒を記した説明板(平成21年3月古賀市教育委員会)には、
「旦ノ原は旧糟屋・宗像二郡の境で、莚内・薦野(糟屋郡)・内殿・上西郷(宗像郡)の四村にまたがる丘陵一帯のことをいいます。

江戸時代は、ここを通る道を唐津街道といって参勤交代の要路でありましたが、丘陵にあるため水がなくて困りました。

「伊東忠平祐義碑」

この実情を当地に住んでいた伊東忠平が、大庄屋の石松林平に訴えて、井戸を掘ることをお願いしたところ許され、 伊東忠平の屋敷に文久二年(一八六二年)の秋に井戸を掘り始め、翌三年の秋にできあがりました。

「伊東忠平祐義碑」裏面には「粕屋宗像二群の境・・・(略)・・・明治三十四年十月建碑」と刻まれています。古賀市図書館収蔵の「郷土古賀の民話」(昭和60年9月1日発行 古賀町司書部会)45ページには全文が掲載されています。

以来住民にも旅客にも便利になり、この井戸のことを『二郡四ヶ村井戸ひとつ』と呼ばれるようになりました。

この井戸は昭和六一年に県道拡幅工事で、道路敷になったため、荒牧晋一氏の御協力を得て移転しましたが、その後、平成二十一年には再度の県道拡幅工事により現在地に再移転しました。再移転にあたって荒牧裕貴、荒牧照貴両氏に御協力をいただきました。
この井戸が唐津街道の当時の様子を伝える歴史的資料として、永く愛され活用されることを願ってやみません。平成21年3月 古賀市教育委員会」

とあります。
伊東忠平の屋敷は,昭和54年の台風で大被害を受けた後に壊されたそうですが、井戸の側には明治34年10月建碑の「伊東忠平祐義碑」と刻した石碑が建っています。

井戸を過ぎると福津市。正面に見える山は、戦国時代には山城が築かれ、合戦の舞台ともなった飯盛山

旧唐津街道沿いの現地は状況が変わってしまっていますが、、古賀市歴史資料館に展示されている昭和43年撮影の航空写真を見ると、県道拡幅工事前の様子をある程度うかがい知ることができます。
(おしまい。)

【記事を書いた人】
千鳥ヶ池のめだか 街歩きと歴史探訪の記事が得意。古賀の歴史を様々な視点から伝えています。

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