【古賀はこがんとこばい】「古賀の民話と伝説の地を訪ねて」旦の原の古井戸(その4)

第4回目は、筵内地区の旧唐津街道「旦の原」での話。
旦の原の古井戸(だんのはるのふるいど)①

青柳の町川原から筵内の鷺白橋を通り、福津市福間町へと抜ける県道503号線(町川原・赤間線)。

江戸時代は、唐津街道として、参勤交代や旅人が盛んに往来した街道で、宗像郡と粕屋郡との郡境の峠には、「旦の原」という小さな集落があって、糟屋郡席内村、薦野村、宗像郡内殿村、上西郷村という四つの村に属していました。

その中の席内村に属する唐津街道沿いに、昔から「二郡四カ村井戸一ツ」と呼ばれた古い井戸が残っています。

今回は、その井戸にまつわる話。

宗像郡徳重大庄屋石松林平は、黒田藩御用などで唐津街道を通っては、福岡へ出向いていた。

その往来には、「旦の原」にある伊東忠平の家に立ち寄り休息していた。

ある日、石松林平が伊東宅に立ち寄ると、伊東忠平が「旦の原」には井戸が一つもなく困っているが、こんな高い所に井戸を掘るには、大金が掛かるので、黒田の殿様に井戸を掘ってもらうようにお願いして欲しいと相談を持ちかけた。

石松林平は、参勤交代などで殿様も通る街道でもあったことから、福岡へ急ぎ、殿様にこの願いを訴えた。

石松林平の話を聞いた殿様は、村人の熱心な訴えに心を動かされて、潘費で井戸の開削に取り掛かり、翌年の文久3年(1863)秋には、伊東忠平の屋敷内に周り(直径80cm)を石垣で囲んだ井戸が完成した。

「旦の原」の峠にある唯一の井戸は、人の往来の激しい唐津街道沿い、旅人立ち寄りの場となって、遠くまで知れ渡り、誰ともなく「二郡四カ村井戸一ツ」と呼ばれるようになったという。

(参考)昭和60年「郷土古賀の民話」(古賀町司書部会)

県道503号線、「古賀サービスエリア」入口前を通りすぎ、カーブを曲がると

 

左側に「旦の原の古井戸」が見えてくる。

 

井戸の右側には明治34年10月建碑の「伊東忠平祐義碑」が建つ。

 

2017年1月「古賀風土記vol.3」
「古賀市案内マップ」

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【記事を書いた人】
千鳥ヶ池のめだか 街歩きと歴史探訪の記事が得意。古賀の歴史を様々な視点から伝えています。

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